かつて、イスラエルの国にソロモンという王様がいました。
彼は、当時の高級木材をふんだんに使って造られた豪華な宮殿に住んでおり、普段飲み物を飲むために使う食器類は全て純金でできていました。それでも、それは彼の途方もない豊かさのほんの一部に過ぎませんでした。
彼はその富と地位を使って、思いのままに好きなことができたのです。
また、彼にはすばらしい知恵もありました。動物や植物についても精通しており、どんな難事件の裁判でも的確にさばく判断力もありました。
一言で言えば、彼は現代の多くの人たちが「金持ちになりたい」・「好きなことを思う存分楽しみたい」・「高い学歴を持って安定した仕事に就きたい」と思って、努力して追い求めているあらゆるものを、すでに持っていたのです。
ですから、それらの物を得ていたソロモンが最後に何と言ったのかということは、みなさまにとっても他人事ではありません。
彼はこう言ったのです。
伝道者の書 2章16節
事実、知恵のある者も愚かな者も、いつまでも記憶されることはない。
日がたつと、一切は忘れられてしまう。なぜ、知恵のある者は愚かな者とともに死ぬのか。
人は誰でも必ず死ななければなりません。
そして死ぬ時には、全ての物を置いて行かなければならないのです。
そのことを考えた時に、ソロモンは自分のような王様も、他の者も最後には何も違いがないことに気が付いたのです。
それを知った彼の結論は、全て空っぽで意味がないということでした。
では、人間が生きている目的は何なのでしょうか。それを知るためには、私たち人間を造ってくださった神様がおられることを知らなくてはなりません。
誰も人間の身体を見て、各部分がでたらめに組み合わさっていると思う人はいないでしょう。
むしろ、人体の仕組みは私たちが驚くほどよくできており、各部分に役割があります。そのような仕組みや設計があるということは、設計者がいるということです。つまり、人間は神様によって造られたのです。
そして、神様は人間をご自分の栄光を現すために造ってくださったのです。
たとえば美しい絵画は、それを描いた作者の栄光を現しますし、それを見る人を喜ばせることができます。
同じように、私たち人間も神様の愛と恵みを喜び、神様をほめたたえて歩むことによって神様の栄光を現し、神様をお喜ばせすることができるものとして造られたのです。
誰一人として、生まれて来た目的がない人はいないのです。
ところが今の人間の生き方は、何とそれとはかけ離れていることでしよう。
多くの人は、神様を無視して自分の好き勝手な生き方をしています。そして、人間が手で造った木や石に過ぎない偶像の前で手を合わせて拝みます。
また、人生の中で数え切れないほどの罪を犯しています。
神様は罪を憎まれる聖なる御方です。
また、全世界の支配者である神様に敵対する者を決して見過ごしにはできません。
神様から離れた人間は、必ず死後に恐ろしい罪の刑罰を受けなくてはならないのです。
それは、火の燃えている永遠の地獄での苦しみです。
ルカの福音書9章25節
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の益があるでしょうか。
しかし、神様はそれでも私たち人間を愛してくださっているのです。ですから人間に罪のゆるしを与えて、神様のおられる天国に迎え入れたいと願っておられます。
そのために、神様は愛するひとり子のイエス・キリストを世に遣わしてくださいました。天におられた罪のない神のひとり子が、人となってこの地上に生まれてくださったのです。
そして神の御子イエス様は、三十数歳の時に十字架にかかって死んでくださいました。その十字架の上で、私たちが受けるべき罪の刑罰を、私たちの代わりに全て受けてくださったのです。
イエス様は死なれた後、三日目の日曜日の朝によみがえられました。
イエス様の十字架の死と復活は、歴史上実際に起こった事実です。
誰でも、このイエス様を救い主として宿じ受け入れるならば、地獄ではなく、永遠の神の御国に入ることができると神様は約束してくださっています。
ぜひあなたも、イエス様を受け入れて、天国に入る方となってください。
ローマ人への手紙 6章23節
罪の報酬は死です。
しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。